【バッカスエッセイ #1】 「笹吟の歌」

笹吟。
日本酒のうまさで知られた、代々木上原の名店である。

まず、名前がいい。
「笹」は酒のこと。
「吟」は吟醸である。
そのままで、上等な酒になる。

吟は、また「吟ずる」で、くちずさむ。
酒を、くちずさむ、歌う、である。
「ささぎんのふえ♪」という唱歌が浮かぶ。

店内、正面の巨大な冷蔵庫。
霜が降りたガラス扉の向こうに、一升瓶がずらりと並ぶ。
その前を定位置に、ゆるりと立つのが、ご亭主の成田さんである。

いつも白い調場衣にネクタイを結んでいる。
礼儀正しく、丁寧なもの言い。
にこやかだが、店全体に目配りを怠らない。
日本酒について該博である。
知識だけではない。
実際に飲み比べている。
聞けば答えてくれるが、聞かなければ答えない。
余計なひけらかしは、ない。

春夏秋冬、灯りがともり始めるころの笹吟がいい。
小雨が地面をしめらすときは、特にいい。
店にとっては困りものだろうが、客足が遅れる。
その分、店の空気が静かに澄んで、落ち着ける。
客としては一等地。

酒を注文する。
「軽めで、切れのいいのを」
おまかせにするのが好きだ。
黒赤の塗りの桝にグラスが傾けて置かれる。
成田さんがガラス扉を開ける。
選ぶ。
抜栓する。
注ぐ。
あふれる。
桝に、こぼれる。
薫りが立つ。

流れるように、動きに無駄がない。

つがれた酒が喜んでいる。

桝ごと酒を引き寄せ、表面張力の頂上を唇でなめる。
液体は、ひんやりと喉をころがって、すとんと腹に落ちる。

笹吟