長いこと続いた寒天が緩んだ朝に、近所の酒屋の3階に登った。10ワットほどの灯りを頼りに酒庫から一升瓶を抜き取り、2階で会計を済ましていると、背後から、よう、と声が聞こえた。振り返ると、木のテーブルの隅で、顔見知りが利き酒をしていたので、なに、飲んでんの? と聞くと瓶を半回転させてラベルを見せてくれた。
ああ、これが紀土か。紀土はキドではなく、キッドと読む。蔵元の平和酒造さんによると、紀州の風土を感じていただけるような酒を造りたいとのことだ。なぜ小さいッがはいるのかは知らない。
愛想のない店のお姐ちゃんに「紀土しぼりたて」を所望すると、グラスに大匙2杯ほど注いでくれた。おお、うま~い! いい香り、胃に落ちたしずくがダンスを踊っているように、身体の内側をツンツンする。円く膨らむ。ああ、気持ちいい。テレビでも時折見かける友人の酒豪女史は、熱処理していない酒は、酒じゃないと常日頃言ってたが、この旨さは見逃していることになるなあ。
実にうまい、幸せな気分になれる酒。しかも一升瓶で2268円(税込み)と恐ろしいほどに安くてうれしい。ただ困るのは、開栓して3日目にはかなり甘くなってしまって、食事の最中に飲むのはキビシイ。私はできない。
この酒に合う肴を探して、いろいろ試してみたが、主菜クラスの料理よりも、さらっと食べられてしまう気軽な小鉢あたりが相性の良さを感じる。ただ、小鉢と言っても一品で完結できるくらいの個性が必要だ。
ということで、ササッと塩茹でにしたホタルイカなんかをアテにしてみたが、これがよくハマる。「しぼりたて」の生酒特有のピチピチとした微発泡の舌触りと、ホタルイカのコリコリした食感も軽快なテンポでよく馴染む。ホタルイカは甘辛い酢味噌和えにするのが定番なくらいなので、紀土が数日経って甘さを帯びたとしても、それはそれでよく合うだろう。
春は出会いの季節。私にもいい酒との巡り合わせがあった。愛想のないあのお姐ちゃんに、礼を言いに行かないとならないな。