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赤茶けた幻 ~モロッコのビール「STORK」の思い出~

モロッコ・マラケシュの広場、いくら彷徨えども酒はない

酒を求めて行ったり来たり

モロッコで酒にありつくのは、そう簡単なことではない。まず彼の地で信仰されているイスラムの教えでは、飲酒は禁じられている。もっとも、地域や民族によって、また価値観の変化などによって、ムスリムの禁酒がどこまで厳密なものかには様々な見方があるが、少なくともモロッコの場合、公衆の面前で人々が酒を飲む姿に出くわすことはまずなかった。

当然、酒が売っていない。コカ・コーラやスプライトが並ぶ街角の食料雑貨店、広場に面した気持ちのいいカフェテラス、地元の名物料理をふるまう路地裏の大衆食堂、どこに入ってもビールの缶一つ見当たらないし、メニューにはアルコール類という項目自体がない。外国人が利用する海外資本の高級ホテルでは酒が提供される、とガイドブックには書いてあるが、こちらはそんな宿とは一線を画すアラフォー・バックパッカーときている。

それでも、欧米の旅行者がたむろする小洒落たカフェ(オーナーがフランス人だったりするような)なら私も利用したし、しかも夜はそのままバーになりそうなカウンターまでしつらえてあるので、ここならさすがにと期待したものの、結局アイス・カフェラテのストローをすするのが関の山だった。聞けば、モスクの周辺では外国人向けの店でも酒の提供は控えるらしく、そのうえ見どころの集中する旧市街は大小のモスクが点在しているので、いきおい街中どこを探しても酒にありつけないという事態が生じてしまうようだった。

アラビア文字のコカ・コーラ、欧米の清涼飲料は見かけるが酒はない
サハラの砂丘に向かう途中、どこまでも続く見渡す限りの荒野

サハラに伸びる一本道で

かくしてアルコールに見放されたこの呑兵衛であるが、郷に入っては郷に従え、そんなモロッコに来てまでなぜ飲もうとするのか、と苦言を呈する向きもあろう。だが当方の弁明も聞いていただきたい。私は知ってしまったのだ。“そんなモロッコ”でもご当地ビールがつくられていると。陽炎ゆらめく北アフリカの酷暑の中、地元の冷えたビールで喉を鳴らす。これほどアラフォー・バックパッカーの心をくすぐる魅惑的なシーンが、他にあるだろうか。

しかし、ない。ない。ビールが見当たらない。とフラれ続けたモロッコ滞在数日目、私は中部の観光都市マラケシュから現地発ツアーに加わって、サハラ砂漠を目指していた。6人の客を乗せたトヨタのランクルは、まず初日にモロッコの背骨である峻険なアトラス山脈(最高峰は4000メートル超に達する)を越えてサハラの“へり”に入り、翌2日目、さらなる奥地に向かった。一口にサハラ砂漠といっても、多くは小石や砂利に覆われるだけの荒れ地であり、風紋の美しい砂丘をラクダが行くお馴染みの「サハラ砂漠」に出会うには、特定のスポットまでそれなりの距離を走破する必要がある。赤茶けた大地にときどき心もとない草地が散在し、遠くに蜃気楼のような岩山がそびえる荒涼とした風景の中を、ランクルはひた走った。そしてランチタイムだと言って、太陽のギラつく昼過ぎ、一本道に忽然と姿を現したレストランに立ち寄った。

灼熱の一本道、日差しを遮るものもなく路面はとろけそうだ
ようやくありついたモロッコの国産ビール「STORK」

念願の「とりあえずビール」

私はそこで唐突に、モロッコのビールとの邂逅を果たすことになる。宿泊棟やプールも備えたレストランはどの町からも隔絶していて、モロッコ人の利用を想定した施設ではないらしい。専らこうして外国のツアー客相手に、ドライブインとして営業しているのだろう。ドリンクメニューには、戒律のことなど何食わぬ顔でビール(何ならワインまで)の名があった。私は言うに及ばず、他の客5人も「ここにいたのか!」といった風に色めき立ち、そろって「とりあえずビール」をオーダーしたのだった。

ほどなくして運ばれてきたのは、おそらく300mlもない小瓶。ラベルには「STORK」の文字。外国人向けにモロッコで生産される数銘柄のうちの一つだ。カテゴリーとしてはラガーで、濃厚なコクよりはキレ味勝負のドライ路線だが、パンチは控えめでスルスルと飲めてしまう。後味で少し苦みが追いかけてくる程度だ。……などと今なら論評もできるが、当時は炎天下の荒野でようやくご当地ビールにありついたことに、一同ただただ酔いしれるばかりだった。

野菜のタジン、土鍋の蓋を取ると香りが広がり食欲をそそる
どこの惑星かもわからない小石と砂利の世界、砂丘はまだ先だ

“夢のような”ランチタイム

ビールと一緒に供された料理は「タジン」。北アフリカ特有の土鍋(蓋が円錐形をしている)でつくる肉や野菜の煮込みだ。サフランなど香辛料の効いたスープがよくしみているうえに、肉はトロトロ、野菜はペタペタで柔らかい。蓋を開けた瞬間立ち上るスパイシーな芳香だけでも、胃袋をおさえられてしまう一品だ。むろん、ビールにもよく合う。全く申し分のないランチタイム。ここに、本懐は遂げられたのである。

満腹感と幸福感を乗せて、ランクルは赤茶色の中を再び走り出した。まさしくオアシスのような場所だったなあと私は腹をさすり、ふと「そんなオアシスの幻を砂漠で見た」という夢オチだったのではと慌ててリアガラスを振り返ったが、レストランと宿泊棟はちゃんとそこに建っていた。だがその後、モロッコにいる間に私が酒と再会することは、ついになかった。あれは一時の夢だったんですよと言われても、それを全面的に否定する確証は、困ったことに今以てない。